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日本経済新聞 文化面:北海道のエリート赤ひげ (2011.10.03)

北海道のエリート赤ひげ 開拓事業が本格的に始まった明治時代の北海道。1892年4月、1人の青年医師が札幌駅に降り立った。東京大学で医学を学んだエリート外科医で、十分な医療もままならなかった北海道に渡り、近代医学の礎を築いた。その名を関場不二彦(1865~1939年)という。
 関場は貧しい人からは診察代をとらなかった。彼のもとには患者が引きもきらず押し寄せたという。若いころは顔の半分がやや赤みがかった ひげに覆われ、まさに山本周五郎の小説に出てくる「赤ひげ」を思わせる医師だったようだ。同じく臨床の外科医である私は15年前から不二彦のことを調べてきた。
 1996年、札幌社会保険総合病院に副院長として赴任し、創設者の「関場不二彦」という名に初めて触れた。1893年に彼が私立の関場病院を開設し、それが変遷して現在の病院につながったと知ったのだ。
 つまりは私の大先輩。どんな人物か気になり、病院の倉庫を調べたところ、古い書架に不二彦が著した出版物などの資料がばらばらに置かれていた。読み始めてみるとこれが実に面白い。
 

お雇い外国人に学ぶ

 会津藩士の子に生まれ、3歳のときに戊辰戦争で祖父を亡くす。困窮のなか苦労してドイツ語、英語などの語学と漢学を習得し、医師を志した。
 やがて東大で「お雇い外国人」のスクリバやベルツらドイツ人医師に学び、その後、最先端の医療を北海道に持ち込む。医学雑誌「北海医報」を創刊し、北海道医師会と札幌区医師会を設立してそれぞれの初代トップに就任。医学史の研究にも励み、西洋の医学が東洋に入ってくる過程を記した大著「西医学東漸史話」全3巻を執筆した。
 私はそれから寝る間も惜しんで関場について調べた。三男の保さんという方が生前は明治大学教授をされていたと分かったので、学会で東京へ出張した折に、電話帳に載っていた「関場」姓の人に片っ端から電話を掛けた。すると親戚の方につながり、四男の守さんに話を聞くことができた。さらに孫に当たる修さんから家系図や蔵書を見せていただくなどして、少しずつ調査は進んだ。
 

区長から目の敵に

73歳ごろの関場不二彦 関場が北海道に来たのは師スクリバがすすめたからだった。当初は公立の札幌病院に勤務する。衛生状態は悪く、天然痘やチフスなどの患者が続出。医師の数は圧倒的に不足していた。人口でみると、1886年時点で医師1人に対して患者は1016人もいた。
 関場は病院の増設や下水道整備について当時の札幌区長に掛け合うが、やがて深刻な対立を生む。札幌区内の飲み屋をすべて訪れるほどの酒豪でもあった関場は、区長からは目の敵にされ、新聞ではバッシングの対象となった。そうした窮屈な立場に嫌気がさした彼は公立病院を辞任して野に下り、私立で病院を開業した。
 手術の成績はめざましく、腕が立つ外科医だったことが分かる。バセドー氏病の手術やクロロホルム麻酔など当時としては画期的な治療を施している。北海道のみならず近代日本のなかでも有数の外科医といえるだろう。
 彼の日記を読むと、夜中でも往診に出かける医師の鑑のような人物像が浮かび上がる。原点は、幼いころの体験にあるのではないだろうか。戊辰戦争で「官軍」と対立し、悲惨な死を遂げた人々を見て弱者をいたわる心が芽生えたのだろう。
 

「仁」の精神体現

 アイヌ民族の貧しい人々からはお金をとらずに診療した。アイヌ語の病名や食用・薬用植物について調べ、論集を書いて治療に役立てた。人類学にも関心を寄せ、北海道にやってきたベルツをアイヌの村に案内したこともあった。
 漢籍に親しみ、ドイツ語でゲーテの「ファウスト」などをそらんじることもできた。その発音はネーティブスピーカーと変わらないほどだったという。
 北海道における医療の発展に多大な貢献をした関場。これほどの人物が一般に知られていないのは惜しいと思い、執筆した評伝「北辰の如く」(北海道出版企画センター)を今年、刊行した。幕末から維新を経て北海道開拓に至る時代の医療の発達と関場のかかわりを表現するよう心がけたつもりだ。
 「医は仁術である」とよくいわれる。関場は他人を理解し、思いやり、共感する「仁」の精神を体現していたように思う。そんな傑物がいたことを広く知っていただけたら幸いである。

(はた・よしのぶ=札幌社会保険総合病院院長)

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